お知らせ内容
10月19日 収穫感謝礼拝のメッセージより
2025年10月19日 収穫感謝礼拝メッセージ「備えよ常に」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 25章1-13節
今回のお話は、婚礼行列の出発を待っている「10人の乙女」たちのお話でした。当時は、夜に参列者たちが皆で花嫁の家から花婿の家まで、婚礼行列を作って行き、そこで婚宴が行われたのだそうです。花嫁の友人である10人の乙女たちは、灯を持って行列が始まるのを待っていましたが。主役である花婿の到着はとても遅れました。乙女たちの内、5人は愚かで予備の油を持たず、5人は賢く予備の油を用意していました。そしていざ花婿が到着してから、愚かな5人は賢い5人に「油を分けて下さい」と頼みましたが、断られてしまいました。そして彼女たちが油を買いに行っている間に、花婿は到着し、賢い乙女たちだけが婚宴の席に招き入れられました。その後、愚かな乙女たちが油を手に入れて花婿の家に駆けつけますが、無情にも「私はお前たちを知らない」と言われ、扉は開かれませんでした。何て冷酷な主人でしょうか。
冒頭の「天の国は、~に似ている」(1)というギリシア語は、「似ている」の他にも、「たとえられる」や「比べられる」とも訳される言葉です。それを「比べられる」と読んでみるとどうでしょうか。「私たちが暮らしているこの世界では、一生懸命やっていても、報われないことも多い。足りない油を分けてもらえず、行列を追いかけて行っても、宴席にも入れてもらえないこともある。でも、天の国ではどうだろうか。きっと、そんなではないはずだ」というように、このお話を理解することができるのではないかと思います。そう考えると、このお話は「天の国は、賢い乙女が入る所」という理解を根本から問い直し、「愚か」で「役に立たない」とされる人々を切り捨てる「賢さ」を問い直しているのではないかと思います。そもそもイエス様も、弟子たちも、その周りに集まって来ていた人たちも皆、社会の中で貧しく小さくされていた人たちでした。生活にゆとりはなく、余分の物や予備の油を持たない人たちでした。それでも、そのような人たちが共に集まり、共に分かち合う中に、神様の力が豊かに働くことを、イエス様はその言葉と振る舞いをもって示されました。
神の国は「もう来ている」、「今ここ」にもイエス様が共にいてくださっているということに信頼して、周りの人たちと一緒に、持たないなりに持てる物で分かち合いの一歩を踏み出してみること、そのことこそが「備えよ常に」という言葉なのではないかと思います。与えられた収穫物、恵みや能力を、独り占めするのではなく、皆で分かち合ってこそ、喜びも元気も湧いてきます。私たちは今日も、ここから分かち合い、共に生かされていく道へと押し出されて参ります。





