お知らせ内容
10月12日 メッセージより
2025年10月12日 神学校日礼拝メッセージ「本当の正しさ」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 20章1-16節
ぶどう園の主人は、夜明けとともに広場に行き、労働者たちと1日1デナリオンの契約をして収穫作業のためにぶどう園に送りました。その後も9時、12時、それから午後3時、5時と広場に行って、新たに労働者たちを雇い、ぶどう園に送りました。夕方になって作業が終わり、賃金の支払いが始まると、夕方5時頃に来て1時間程しか働いていない人たちが1デナリオンを受け取っていましたので、朝から丸一日働いていた人たちは、もっと沢山もらえると思っていたのにもかかわらず、同じ1デナリオンでした。彼らは主人に不平を言いましたが、主人は答えました「不当なことはしていない。あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか」と。このお話は「天の国は次のようにたとえられる」という言葉と共に、世の価値観とは異なる神の価値観として、いわゆる時給ではなく、一人一人の人の命を養うパン、最低限の日当が全ての人に無条件に恵みとして等しく与えられている、というように読まれて来ました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そもそも農業の繁忙期には人手が必要ですから、1デナリオンというのは命を繋ぐ最低限の日当よりは高額に設定されていたでしょう。そのことを考えると、むしろ「あなたに不当なことはしていない」と語る主人の方が、不平を言う労働者よりも冷酷で、労働者たちに対して不当な仕打ちをしているように思われてなりません。
冒頭の言葉のギリシア語の原文では「たとえられる」「似ている」「比べられる」は全て同じ言葉です。これまでは「天の国の主人=神様」という理解で読まれることが多くありましたが、むしろ「天の国の価値観というものは、このようなぶどう園の主人と比べられるものだ。比べてみるとどうだろう」という意味で読めるのではないかと思います。イエス様は「こんなぶどう園の主人(雇い主)がいたらどうだろうか。比べて考えてごらん」と、人々に問いかけられたのではないでしょうか。そのように考えると、このお話の結論は、朝から晩まで暑い中を一日中働いた人たちと、夕方から一時間だけしか働かなかった人たちが、共に主人の言いなりになっているような不当は許されてはならないということです。今この社会では、権力を持つ「主人」が、人の上に立ち「自分の物を自分のしたいようにして」、庶民をないがしろにしている。しかし、来るべき天の国、神の価値観に基づく、本当の正しさとは、全ての人が労働を侮られず、自尊心を傷つけられず、存在そのものを尊重されて、生活に必要な糧を得られる世界にこそあるものなのではないかと思います。





